昭和五十二年七月二十一日 朝の御理解

御理解第十八節「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」


結局は、神様のご信用を頂いていくという事になるわけです。やはり御神徳を受けて、しかもその御神徳が漲るようになった時こそが生神の境地だろうと思います。
生まれては消え、生まれては消え、私ども信心させて頂いとりますと、ほんとにここに神が生まれることであってと、仰せられるように、自分で自分ながら心を拝みたいような時もありますけれども、また反対に、自分の心に嫌悪を感ずるような、ね、反吐が出るような思いをすることもある。そこの繰り返しを、ま、しておるのが私どもの現状ではなかろうかと思います。
昨日、椛目の中島力君が丸少で一生懸命御用させてもらってます。弟の方です。力君と。来年は僕はいよいよ高校ですから、どの学校を選んだらよいでしょうかと、と言うて、五つか六つか、高校の名前がうつっとる。
僕はどこが一番いいかと私が申しましたら、僕は九商を願っております、とこう言う。
そんなら九商をお願いしたらよいじゃないかと。
はい。て、決まるわけです。
ついては、私立高校はどこを受けたがよいでしょうかて。
もう私立高校は受けんでよいくらいに、おかげを頂いて神様に一生懸命おすがりしなさい。
もう、はいっ、て。
もうほんとにあのう、子供の時から信心しておる、いうなら私あの、丸少というてその丸少が盛んであるというただけで、結局大きく、なら青年になり、壮年になりして、なら丸少の中にどれだけ信者が残るかというと、残っていない所が多いらしいですね。私はやはり、丸少というのは、子供の時から神様へ向かう心を作らせ、子供の時から、その生神への基礎を作ることだと思う。
いうような教導がなされなければいけない。ただ組織とか、まあ本部あたりから言うように、もうそのために、私どもは、もう光昭なんか、もうほとんど御本部行きであり、または地方の教会に、もうしかもいつも何日間、しかも泊まりがけ、そして聞いてくることはどういうことかと言うと、いわゆる信心のことは、まずは言わない。
ね、私はようと詳しう聞いたこともないけれども、最近、栄四郎と光昭が、最近、そのう、本部で言われる丸少と、合楽で育っておる丸少との、ま、間隔というか、だいぶんはなれてきた。今まではもう本部もなからねば、ただ合楽だけのいきかたでいっておったんですけれども、だから合楽だけのいきかたになると、どうしても信心が芯になる。もうむしろ、学業のことよりも信心の方を芯にするようないきかたが生まれてくる。
昨日も、中島の上滝さんところの嫁が参ってきて、このごろ長男の総一郎君が、毎日ここへお参りをしてくるんです。そして、何かあのうブラスバンドの何か楽器を選んでもらってるわけでしょう、その練習のために毎日通ってくるんです。もう合楽に行く、合楽に行く、合楽に行くことはもうだあれも言わんでもですけれども、その勉強の方は、もう言うても言うても、しません。それで、塾にやるか、ま、家庭教師でも雇うかせねばと思うとりますが、と言うから、けれどもね、あの、勉強が出来るが人間の幸せか、神様に向かって勉強が出来んから困ると。それはなるほど学生だから勉強するのが本分だけれども、本人が神様神様で向こうて来よるなら大丈夫よ、と私が申しましたことですけれども、もう私の教導はもう一からそういういきかたですから。ね。
必ずしも、なら良い成績をとって、良い学校に入って、良い就職をしたから、幸せということじゃない。問題は神様のおかげを頂かなければ幸せというものは約束されんのですから。
神さまのおかげを頂かなければ幸せにはなれんのだから。
子供の時から神様神様、合楽合楽で出てくるなら、それでいいじゃないかと。まあ申しましたことです。そして、どういうものが育っていくかと言うと、その力君じゃないですけれども、もう願いとするそれをお取次を頂いてお願いをしたらよいじゃないかと。県立久留米商業を、なら今日から先生もお取次さしてもらうから、そんなら私立高校はどう。もう私立高校は良いとも悪いとも申しませんでした。もうとにかく九商に通るようにしっかり信心をしてお願いをしたらいいじゃないか。もう、はいっ、て言うてすっきりしたことです。
ね、おそらくその心の状態の中には、もし九商に入らなかったら、もう中学だけで止めてもよいという腹を私は感じたです。ほんとにあの子供の時から、やはりそうした信心を身につけていくという。どうも、親、教育ママ的な、教育ママではなくても、ママ的な、そのう、子供に対する、もう勉強しとらなければ世の落伍者になるように、その親たちがその観念を持っておるから、そういうことを子供にもやはり植え付ける。
もうこんなつまらない観念は捨てなければいけません。ね。勉強が出来るから良い成績をとるから、そら勉強せんでもよい、成績がどげん悪かったっちゃよかということではない。けれども、信心の方を少し削ってからでも勉強させようという考え方は、もういよいよ間違いである。こらもうほんとに間違いです。子供の時から神様に向かうならば、ほんとにそれを十分に向かわせる。そして勉強である。ね。一にも神様、二にも神様、実は三にも神様ですけれども、なら学生の場合であると、一にも神様、二にも神様、そして三に勉強というぐらいで丁度良いです。落第したら落第したことがおかげの元になればいい。このへんのね、私は観念を、親自体が取らなければいけない。そういうところに、本部で指示されるところの丸少教育と合楽流の、いうならばいきかたというのが違ってくるところに、その丸少のそれに、まあ一つの行き詰まりのようなものを、まあ、感じておるという、先日お届けがございました。ね。
一番、生神への邪魔をするのは、本当でないことを本当と観念することが、生神への道を塞ぐのです。ね。問題は、神さまのおかげを頂かなければ全てのことができんのだと、神様のおかげを頂かなければ、人間は幸せになれんのだと。頭じゃないのだ。技術じゃないのだ。信心なんだ。しかもその信心はです。神様にご信用を頂けれる、いうならば信心が子供のうちから鍛えられなければいけない。もう子供の時から向かうところはやはり生神だ。
私は昨日、力君のお取次をさせて頂いてです。もう本当に一言で、はいっ、て決まっていくところにです。彼の今後の信心にほんとに一つの期待を感じました。
生神への精進。私どもが段々おかげを頂いて、ね、時折、はあこれが、こういうのが、こういう心の状態が続いたら、これが生神が生まれるということであろうと思うような状態になりますけれども、それが生まれては消え、生まれては消えするのです。
今一時の御祈念にみんながそれぞれの所でやはり一生懸命大祓いをあげよると、もう胸がこみ上げてくる。涙がこぼれるようになってくる。じっと目をつぶってその中に入っておると、信心のことは何も分からんけれども、何が何か分からんのだけれども、感激が起こってくる。ね。けれどもそういう感激は、すぐに消える。それがいけんと言うのじゃない。
昨日も、日田の森山さんが今、朝の御祈念の後に、一緒に坂本さんたちと一緒に参って見えます。そしてまた一緒に、昼の修行にお参りをする。もうここにいっぱい信者が集まっておられるとを見ただけで感動する。私はお話が、先生、できませんから、よくお届けができませんけれども、障子を開けて親先生の顔がちらっと見えただけで、もう声をあげて泣こうごとなってくる。と言うて、昨日その感激いっぱいで、こらどういうことでしょうかと言うて、お届けをされるんです。
そら森山さん、あんたの感動じゃないよ。神様が喜びござるとよと。ね。と言うて、まあ、お話をしたことですけれども、確かに感動というのは神様の喜びです。そのまま生神の喜びです。
その喜びが自分の中に入ってくるんですから、生神への精進とはそういうことなんだ。
しかしそういう、なら、生神への素晴らしい信心をさせて頂いておりましてもです。それを邪魔するものが何かというと、観念だということでございます。ですから私どもはほんとにです。まだいろいろ知識を知らん、あの、体得する前に、先ずその観念に支配されることのないような信、いわゆる神様を信ずる信をです、ね、たとえば、もうほんとに、薬が毒だといったような間違いのない観念が出来なければいけません。これはもう絶対、薬は毒です。その毒をみんなは、ならどうかありゃ薬と言うて、すぐ、一時たとえば押さえが出来るからというて薬で楽になろうとすようなね、観念をほんとに捨てなだめです。
私どもはそういう意味で、子供の時から、ね、っと転んで怪我をすると、婆がすぐお土地を生神金光大神様、金光大神様ちゅうてから、つけてくれた。家ではもう御神米だ、さあ、お神酒だであった。ね、だから薬はというのをのまんでもおかげになる、というひとつの、まあ、信念のようなものがね、そこに出来てくる時に、その信念が、いうなら観念を払うてしまうのです。
私どもはどんなに、なら、新聞広告を見てから、テレビやらでですたい、ほらもうそうにゃ効くごと、胃腸にはキャベジンといったようなその、ね、頭痛か時にはノーシンと言うて、宣伝を見よる、見てから、ほうあら効くばいの、とは一遍も思うたことはないです。もうしらごつばっかり言いよるとしか思わんです。ほんとです。ね。痔の薬にはどげんとがよかち、もう絶対、あれはしらごつ。やっぱ知らんもんがあれに引っかかってから、あれを買うてのんだりすると思うだけです。もう子供の時から鍛うとるから。
そして今にして思うと、それが本当なことだということなんです。ね。
皆さん、ほんとにですね、もうあの、たとえば頭が良くて勉強が良かれば幸せになるというなら、もう私の頭の悪かもんな、いわゆる幸せにはなれんごたる感じがするでしょうが。ところが実際、なら、私ども小学校の時の時分のことを思うてごらんなさい。もうあんやつはもう、頭も洟垂れで、ちょいとこう権三郎のごとこう垂れてから、頭はいっちょん悪い、悪いし、先生からずっとおごられよったけどが、今は村では、それこそ村会議員にでも推さるるちゅうぐらいなっとるです。これは私の友達。ね。あげんとが大きうなるならどげんなるじゃろかと思うごたる。ところがどっこいそうじゃない。そして僕は子供ん時に勉強できじゃったから、子供達だけはいっちょ勉強させなにゃで、二人ながら子供を大学にやった。そしてなら、その大学に行く子供が幸せ、親父ぐらいに幸せになるかならんか分からんの。それが観念です。ね。
ですからね、こりゃまあ、ほんとに、教育者に言うたら、私が教育者の考え方と反対のことを言うことになりますけれども、それをなら、受けてはならんじゃないけれも、一番根本のところにです。神様の働きとかおかげとかいうものを、根本にしてから、の勉強であり、技術でなからなければいけないということです。
そして神さまのおかげを頂かなければ、ね、世界中の氏子におかげはやってある、ということ、なら、頭の良い者には、だけが幸せになるとか、偉くなるということだったら、神さまのおかげは一様ではないもの。頭が悪かろうが良かろうが、その心の受け取り方、天地の親神様の、いうなら、お心を、の分かり次第、いうなら、心次第ですべてを創り出していけれるような働きを下さることが、ね、世界中の氏子におかげをやってあるのです。ですから、いうなら、子供の時から、そういう観念を払うてやれれる親、またそれを受けていけれる子供は、幸せだと私は思います。ね。
ですから、一にも神様、二にも神様、三にも神様とまではいかんでもです。ね。いうなら、勉強は三に、ぐらいで丁度いいです。そしてほんとの観念をですね、神さまのおかげを受けなければ、というところに、をしっかり植え付けていくところにです。生神への道が、いうならば、スムーズに開けてくるのです。邪魔するものがない。観念が生神への道を、私は、塞いでしまう。
昨日私はその、中島力君のお取次をさせて頂いて、そんなことを感じました。
どうぞ。